のの子のつぶやき部屋

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【映画】パンズ・ラビリンス『人生はお伽話ではないし、世の中は残酷』

 久々というレベルでないくらいに放置状態でしたが、自分用メモに映画の感想を。

 

 

 『パンズ・ラビリンス』というスペイン内戦とその戦禍の中に生きる少女を描いたファンタジー作品。

 鬱映画で検索してヒットして気になったので見てみた。

 

 ネタバレ無しでは語れない内容なので、以下ネタバレ感想と自分なりの解釈です。

 ハッピーエンド派の人は読まない方がいいのでは、というくらいに酷い解釈なのでご注意ください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私はこの映画はバッドエンドだと思います。

 ハッピーエンドだと思えるほど救いを感じなかった…。

 

 

 

 まず、色々議論されているであろうオフェリアと彼女を取り巻く世界をどう解釈するかというと。私はこの映画の中には「ある」ものだと思って見た。

 見終わった後、オフェリアがつらい現実から逃避するために考えた妄想、というのも考えられると思ったけど、映画的にはそれはあまりおもしろくないしな、と。

 オフェリアが接した異世界は彼女の妄想ではないと思う。パンはオフェリアの前に現れ。3つの試練を与えた。

 ひとつ目の試練は上手くいくが、ふたつ目の試練でオフェリアは言いつけを破ってしまい失敗する。パンは激怒して、王国には行けないとオフェリアを突き放す。

 

 だが、このパンという山羊頭の男。

 物語ではオフェリアを魔法の王国へ誘う案内役のような役割で登場するが…。果たして彼は本当に牧神のパンなのか疑問に思う。

 西洋世界では山羊は悪魔としても描かれることが多い。この映画の中のパンは牧神というにはちょっと禍々しいというか。最初の煙に巻くような語りも怪しいし、正直悪魔といったほうが納得するような見た目である。

 ナナフシの妖精に関しても、本で見せられた姿を真似て姿を変えたようにも見えるしオフェリアを誘う罠のようにも思える。見た目も可愛らしいというよりは禍々しいし。羽音も不気味。

 パンは最初にオフェリアに遭遇した時は恭しい態度だが、鍵を持ってきた時にはなぜかちょっとオフェリアを嘲るような態度を取る。

 山羊頭の男と赤子を抱く女性の石像を指差し、あれは私、あの女の子はあなただというパン。オフェリアはあの赤ちゃんは?と聞くがパンはその質問を無視する。

 そして満月が近づき早く試練を行えと急かし、そして同時に甘い言葉と態度でオフェリアを誘惑するようなパン。オフェリアはパンに「あなたの言葉は真実?」と問う。それに対してパンは「私は かくも哀れなパン 嘘などつくわけがない」と答える。

 ここで冒頭の語りを思い出すと。

「昔むかし、遥か昔。

 嘘や苦痛のない魔法の王国が地面の下にあった」

 と言っている。

 魔法の王国には嘘がない。

 パンも「嘘などつくわけがない」と。

 しかしパンは最後の試練で『扉を開くには無垢なるものの血を捧げなくては』と言う。

 そこで、オフェリアが最後死ぬ間際に見た世界で語られた最後の試練の内容を思い返してみる。

 『無垢なる者の替わりに血を流すこと』である。

 ちょっと矛盾していないだろうか?

 嘘を言っているとまでは言えないけれど、こんなだましうちのようなやり方は「嘘の無い」世界でやるのはなんだか釈然としない。

 それに、パンは一度オフェリアに赤ん坊のことを聞かれたときに意図的に無視している。最後に第二の試練の時に手に入れた剣を持ち、血が必要だと言う。

 第二の試練の時のあのバケモノは赤子を食らっていた。

 山羊頭は悪魔としても存在する。

 ということで。

 赤ん坊は悪魔に捧げる生け贄だったのではないだろうか。

 山羊頭の悪魔は自分の何かの目的のために赤ん坊の血(命)を欲していて、そのためにオフェリアを利用していた。

 そう思うとパンの不可解な言動も納得できるのだ。

 あの石像を見ても、悪魔以外の何物にも見えない。

 

 オフェリアは王女の生まれ変わりでもないし、試練を達成しても魔法の王国には行けない。パンは牧神ではなく悪魔で、オフェリアを言葉巧みに操って、赤ん坊を生け贄に捧げるようにそそのかす。

 でもオフェリアはそれを拒否した。

 ここで悪魔は諦めた。

 オフェリアと異世界との繋がりはここで断ち消える。もっとも、ここでの解釈でいえばその異世界も悪魔に騙されて信じた嘘なので、魔法の王国なんて最初からオフェリアとはなんの繋がりもなかったということだ。

 

 この映画の解釈で考えうる中でも最悪のバッドエンドだと思うけど、私の中ではこの解釈が一番しっくりくる。

 オフェリアは魔法の王国には行けず、そもそも王女の生まれ変わりでもなく、山羊頭は牧神ではなく悪魔で、オフェリアは内戦に巻き込まれてただ死んでしまった。

 

 オフェリアはファンタジーの世界と現実と行き来する。

 どうして、この映画では現実世界の争いをあそこまで悲惨に描いたのか。それは戦争は本当にただただ悲惨なものだからだ。

 作中では体制派を悪に見立て、反体制派寄りに描写してはいたが、反体制派の行いを肯定的に描いていたわけではないと思う。

 大尉のやり方はそれは残酷だったが、反体制派の人間も人を殺している。結局どっちも同じなのだ。

 大尉は、おそらく勇敢に死んだと聞かされた父親のようになりたかったのだ、と思う。割れた懐中時計を大切に手入れし、時間を止めたはずの時計を割れたガラスのまま使い続けている。どういう心境なのかは謎だが、何かコンプレックスがあるのは確かなように思う。

 この映画の中で、大尉のやったことは腹立たしいことばかりだが、映画的には大変美味しいキャラだと思う。

 噛ませ犬じゃなくて、本当に強いし、なにか彼なりの信念というか、強い思いに突き動かされているというのがわかる。軍人としてはとても優秀なのだろう。

 大尉を中心とした体制派とそれに抗う反体制派。そして、父親としての彼とオフェリアと母親との関係。

 ファンタジー世界も魅力的だけども、この映画の見るべき所はこっちなんじゃないかというような気がする。

 ファンタジーの描写があるから、現実世界の悲惨さが際立つのだ。

 だからこそ、ファンタジーの世界に逃避してはいけない、と思う。

 映画の中で多くの人間が惨たらしく死んでいった。そんな中で、特別な存在であるオフェリアだけが死んで救われた。そういうことはこの映画で私は認めたくない。

 戦争の中では皆平等に、惨たらしく死んだのだ。そうでないと一気にこの映画が陳腐に思えてしまう。

 死ぬことは悲惨だ。酷いことで、ましてや幼い少女が戦争に巻き込まれて父親に殺されるなんてことあってはならない。

 それ以上に、死んで幸せになるということが認められてはいけないと思う。

 オフェリアが、本当に魔法の世界に誘われたのか、死の間際の幻だったのかはどっちでも結局一緒なのだと思う。

 別な場面で死んでいった人だって、死の瞬間に幻をみたかもしれない。彼らも死後幸せになったのかもしれない。

 でも、現実はただ死んだだけだ。死んだら全てが終わってしまう。

 

 人生はお伽話ではないし、世の中は残酷なのだ。

 オフェリアは悪魔に利用され、見放され、現実世界では内戦に巻き込まれ悲惨に惨たらしく死んでしまった。

 現実があまりにオフェリアにとって辛く耐え難いもので、けれども彼女は死んで魔法の王国へ招かれ幸せになりました。おわり。

 これじゃあ、あんなに戦争を悲惨に描いた意味がないように思う。死は誰にとっても平等で、戦争で死ぬことは酷いことなのだから。

 

 

 唯一の希望は、メルセデスが生き延びたことと赤ちゃんが助かったことだろうか。

 

 ということで、私はパンズ・ラビリンスは完全に一片の救いもないほどのバッドエンド解釈でした。

 マジで見終わった後ズーン…ってなってた。

 私がバッドエンドの解釈に寄るのは。子ども(オフェリアの接するファンタジー)の目線ではなく大人(現実世界 )の目線で見るからで、ハッピーエンドかバッドエンドかは見る人の立ち位置によるものだと思う。

 現実から見れば究極のバッドエンドだし、ファンタジー的に見れば大団円のハッピーエンドだ。

 でも私はファンタジーとしてもハッピーエンドとは思えなかった…。あの山羊を信用できない。

 

 最後見ながら思ったことをざっくばらんに。

 私スペイン語の映画って初めて見たのだけど、最初は耳が慣れなくてちょっと混乱した。けど、なれると指輪物語のエルフ語みたいにも聞こえてきてファンタジーと結構相性がいい言語だなーと思った。

 指輪物語といえば、私は近年のファンタジー映画はどっかしらロード・オブ・ザ・リングだと思ってしまう病を発病しているのだが、このパンズ・ラビリンスに関しても随所であーロード・オブ・ザ・リングって感じだったんだけど、調べたら監督がホビットの制作にも関わってるんですね。

 あと、鬱映画ってワード以外になんの予備知識もなく見たもんで、こいつの造形には本当に鳥肌がだった…。

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 考えた人天才だと思う。

 よくよくいると手がパってなってて愛嬌がある、かもね(^_^;)