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のの子のつぶやき部屋

BLとかBLとかBLとか。少女漫画とか。他にも。ただの萌え語り。基本ネタバレ。

【少女漫画】水樹和佳子『樹魔・伝説』イティハーサはやっぱりSFだった

水樹和佳子 SF 少女漫画

 イティハーサの書評を前から書こうと思っていて、最近再読しているのだが、実は作者の他の作品は読んだことがなかった。

 何気なく検索したら電子版がレンタルで約100円だったので、やっす!って思って思わずポチ。

しかし、読んでからこれ最初から本で買えばよかったな、と後悔。

 

 同じ水樹和佳子さんの作品であるイティハーサと絡めた感想になるので、イティハーサ読んでないという人はよくわからない話になるかも。でもこれ読んで、イティハーサ読んでないという人はあまりいなさそう。

 

イティハーサ (1) (ハヤカワ文庫 JA (639))

イティハーサ (1) (ハヤカワ文庫 JA (639))

 

 

 水樹和佳子さんは元々あまり多くの作品を出してる方ではなく、私もイティハーサしか読んだことがなかった。

 好きな漫画を10作品挙げろと言われればイティハーサは上位5位以内には入るくらい好きな作品だ。でも、なんとなくそれで満足してしまって、他の作品読もうとならなかった。

 イティハーサを初めて読んだのは高校生の時で、図書館で借りて読んだのだった。そして大いに感動してやっぱり後で本を買った。

 

 対立する神と人間と、それぞれの思惑が複雑に絡まってストーリーは少々難解。だけど私はとにかくキャラが好きで好きで…。特に鷹野は漫画キャラの中で一番好きかもしれない…。青比古も一狼太も那智も夜彲王も好き(ただのミーハー)。

 でも、最近随分久しぶりに再読していて、文庫版の解説を読んで、あ、イティハーサってSFなんだなと始めて意識した。

 早川から文庫で出ているし、SFとしてあらすじも載っているけど読んでいてそこまでSFっぽさを意識して読んだことがなかったのだった。

 どうやら掲載誌的にSFというのは中々難しかったらしく、ぱっとみは普通のファンタジーとして描くしかなかった、ということだったらしい。

 

 文庫の4巻の解説で、大森望氏がイティハーサのSF的回り道のことについて述べている。

『読者との間の暗黙の了解を前提としないことで、『イティハーサ』はずいぶん長い回り道をしているように見える。SF読者だけを相手に語るなら、SF用語を使って説明することで手っ取り早く結論を提示することも出来たはずだ』

  イティハーサはながーーーい時間をかけてSF用語を使わずに説明したSF作品だと言っている。

 そして、この解説の中に、水樹さん本人の言葉の引用もあった。

『宇宙の理について基本的に科学的な考え方を採用するのがSFで、それを作者の中でつくりあげるのがファンタジーだと思うんです。わたしはどっちかというと科学的な方でものを考えるたちなので』

  とのこと。なるほど。

 とはいえ、イティハーサのSF的考え方は結構難しいと思う。

 でも、『樹魔・伝説』を読んで、なんだかわかったような気がしたのだ。この作品でイティハーサに繋がるSF的要素がわかるんじゃないかな、と思った。

 言葉で書くとすんなり入ってくるものをイティハーサではストーリーとキャラクターの掘り下げで表現しようとしていたのだな…とようやくわかったし、私がぼけっとして読んでいたんだなということもわかった。(感動したとか、5位以内に入るとか言っておきながら)

 

 『樹魔・伝説』の単行本には全部で、5つの作品が収録されている。

 

「ケシの咲く惑星」

「月子の不思議」

「樹魔」

「伝説―未来形―」

「墓碑銘二〇〇七年」

 以上の五作品。

 

 最後の「墓碑銘二〇〇七年」は光瀬龍の原作なので、この作品の説明は端折ります。

 

 他、4作品で、水樹さんのSF観はわかったと思う。これを読むと読まないとだとイティハーサの理解度は大きく変わってくるなーと思った。

 

 いくつかキーワードがあるんだけども。

 読んでいるときは、わかったと思って読むんだけどそれを言葉で説明するのって大変だ…。こういう時に本当に作家や漫画家や、他にも言葉を生業にしている人たちはすごいなーと思う。考えるだけで頭煮えそう…(;O;)

 

 「ケシの咲く惑星」はちょっとテーマがSF的要素から外れるので、これはちょっと後回し。

 

 ますは「月子の不思議」から。

 「月子の不思議」で、バクスター効果(植物に人の意志が伝わるという理論)によって、人間が植物を利用する「物」(人と共生する生き物ではない)としてしか考えなくなったために地球全体でマイナスのバクスター効果が起こり、森林破壊が進んでいくという理論が作中で出てくる。ここではバクスター効果というものが本当にあるのかというのは置いておいて。

 その、植物が持つサイ・エネルギーを見ることが出来るキャラ、月子が登場する。月で生まれたから月子と名付けられた彼女は、月にはない地球の目に見えるエネルギーに戸惑う。

 サイ・エネルギーは古い物に強く宿る。35億年前の『石』。また、古い『鳥居』や『老樹』。でも、そういった物から発するエネルギーを活用する手段を人間はまだ持っていない。

 しかし、「人々が望むからサイはある」という。人の意志がエネルギーを生み、また同じように人の意志で木々を枯れさせている。

 地球のエネルギーを受け取った月生まれの月子は、その力がアンバランスだと驚く。

 森林が枯れ果てた広大な砂漠が夢見るのは5千年前にその地にあった緑の森。

 綺麗なバランスをせめて夢の中で見ていようといってこの話は終わる。夢見ることで意志が生まれ、やがてそれが力になり、地球に伝わって、木々が育っていくだろう、という希望のある終わりになっている。

 

 木や、他の自然物、また古い人工物にエネルギーが宿るという考え。そして、それを人が取り込んで力や生命力に変える。そういうのは、イティハーサでは宗教的儀式で奇跡のような描かれかたをしていて、ファンタジー的に捉えると普通にこういうことが起こる世界なのだ、と流してしまう。当たり前、みたいに思ってしまう。でもSF的に見ると、それは当たり前ではなくて、そういった能力をもつ人間だから起こる事象ということだと理解できる。

 ちょっとだけ解釈が変わってくるんだよね。

 なんでも、当たり前とストーリーをとらえるのとワンクッションあって◯◯だからこうなのだ、というふうに読んでいくのだと、物語の理解度に相当な差が出てくると思う。

 イティハーサが古代日本が舞台でなかったらもうちょっとわかりやすくSFになったんじゃないかと思う。あのビジュアルでだいぶ目眩ましされているというか。最初からこれはガチのSFなんだと思って読むのと、ファンタジーなんだって思って読むのとでは全然違うんじゃないかな。

 そういう意味では、最初からイティハーサはSFとして読むべき話だったなーと今になって思う。

 

 そして、「樹魔」「伝説ー未来形ー」では、全部で200ページ無いくらい?なのだけど、イティハーサのSF的要素を全部「言葉」で説明すればこの長さでも十分なのだな、と思った。それくらい密度が高い。イティハーサはSF表現以外にキャラの掘り下げと壮大なストーリーの展開もしてるから更に物語として深く、重くなっている。

 この作品ではSF的要素、用語で説明したことを、イティハーサではキャラの行動とか思想に落とし込んで再構築している。だからキャラが濃いし、そして辿る運命も過酷なものになる。

 人間の意志を超え、神に選ばれた存在が透祜。透祜と同じ性質を持ちながら人間を超える意志には耐えられず、壊れる運命だったのが青比古。そして唯一最後まで人の形のまま、人の意志で神の意志と対峙したのが鷹野。人の形をしながら、神の概念として、思想を体現したのが夜彲王。

 イティハーサで登場する神がすなわちそのままSF思想や概念自体ということになる。神に語らせることでそういう世界を説明したわけなんだけど。この辺はまだ再読してないので整理がついてない…。

 

 「樹魔」「伝説ー未来形ー」を読んで正直に最初に思った感想をいうと、「これ、まどマギじゃん…」ということだった。と思ってよくよく考えるとイティハーサもそんな感じだ。(キャラにだけ焦点を絞って考えると)人が究極の存在(神に等しい)になるというのが共通点なのだけど。なんという安易な感想…(^_^;)

 まどマギも物語を全部言葉で説明できるという、すごく理屈っぽい話で、そういう理詰めのファンタジーって個人的に好きなんだよね。事象にちゃんと納得できる理由があると、あーそうなんだって腑に落ちる。その、「なるほど」ってなる瞬間が好きとも言える。

 まどマギは絶望が深ければ深いだけ得られるエネルギーも多い(少女の希望が絶望に変わる瞬間の差分をエネルギーに変換する)、という設定だったけど、何度も何度も絶望して魔女になることを繰り返したまどかはいつの間にか神にもなり得るエネルギーを内包する「可能性」を秘めた存在になる。それが、マイナスに働くと魔女になり、プラスに働くと神になる、ということなのかな?と思っている。つまりはまどかの意志、願いひとつで世界が変わってしまうのだ。これもセカイ系の分類になるのかな?

 「樹魔」も、人間の意志のエネルギーの話だ。人間の感情そのものがエネルギーになるという。「月子の不思議」ではサイエネルギーという表現だったもの。そして、それが「伝説ー未来形ー」ではもっと広がって、最終的にはセカイ系みたいな話になる。でも、セカイ系では説明が省かれる「セカイ」にちゃんとSF的に説明がされている。だから、ああなるほど、とちゃんとわかるようになっている。(逆に言えば説明がないものが「セカイ系」なのかも)

 

 「樹魔」は人の「意志」によって驚異的な進化を遂げる植物群ジュマが突然変異的に地球に現れる、という話だ。

 南極でありえない規模の植物反応、そして水蒸気が確認され、植物が熱エネルギーを発生させている(純粋にエネルギー値が大きすぎて熱を発している?)ということに気がついたイオ・フレミング博士(まだ少年。そして美形)は、『瞑想』によってその原因を突き止める。

 この『瞑想』というのは、作中では「意識的に無意識状態をつくりだし、ひらめきや直感を得る」というような感じで説明されている。凄まじく精度の高い予測は予知や透視になり得るということだ。この瞑想で得られる結果(直感)はほとんど事実だといえるほどの精度で、直感は作中では科学的に認められている。

 

 イオは瞑想によって南極に植物の超生命体がいることを予測する 。地球に降り注いだ隕石に紛れていた生命体(E生命体)は自身が存続するための本能として宿った種の進化を進める。質量ゼロの純粋なエネルギー体であるE生命体は、同化した生命体の進化させることが生存することに繋がる。そうして植物に入り込んだE生命体は遺伝子を変化させ、ありえない速度で植物を進化増殖させる。(かつての地球では海中の植物が陸地に上がるまで26億年かかった。E生命体が寄生した植物は同じ過程を5年で辿る。26億年を5年で、と言えばどれくらいの速度かわかると思う)。

 そしてその超生命体は、本来であれば植物に進化を促し、進化増殖し続けるはずなのだが、何故かその活動を停滞させている。その原因が”人”である、という答えをイオは瞑想で得ていた。イオ自身でさえどうして、”人”というキーワードが出たのかわからない。それくらいイオ自身も飛躍していると思う答えだった。そしてイオは自ら南極に赴き、超生命体と停滞の原因の調査をすることに。

 そして、南極に現れた樹海でイオはディエンヌという少女と遭遇する。やはり、森には”人”がいたのだ。

 

 このディエンヌこそが、意志、願いによって自身を極限まで進化させ、神に等しい存在になれる可能性を秘めた少女なのだった。

 

 超生命体のことをディエンヌはジュマと呼ぶ。超生命体ジュマは外界の生物に依存し生存する生き物なので、出会った知性体のディエンヌに強く反応する。ディエンヌが移動するとジュマもそれに合わせて増殖する、そうやってどんどん生息範囲を増やしていった結果、森林が出来上がってしまった。

 ここでは、植物が人間の感情に反応するという性質が極端に進化してしまった、という設定になっている。だから、ディエンヌの求めに応じてジュマはどんどん奇妙な進化をしていた。

 しかし、増えすぎた木々は熱エネルギーを発し、南極の氷を急速に溶かしていた。このままジュマが増殖し続ければどんどん氷は溶け、海面は上昇し、海抜の低い地域は水に沈んでしまう。

 イオは、ジュマを殲滅することを決めるのだが…。

 

 SF的展開だけを書くとこんな話。「樹魔」は結構エンターテイメント的SFで、なにか思想的にどうのこうのという話にはまだ行き着かない。

 それにキャラ自身のストーリーも挟まってきて、これがベタなんだけど感動する。イオは実は半年前に爆発事故で死んでしまったはずの、サヤマ・ジロウで、”バイオーグ”という人工体に脳だけ移植されたサイボーグだった。そんな技術があるんなら容姿もそのまま作ってやればよかったのにとも思うけど、見た目が変わってしまったジロウと再会しても、兄のイチロウはそれが弟だと気が付かない。

 私はこういうベタなやつに弱い…。イオの意味ありげな視線にイチロウがドギマギしてたのもちょっと笑える。

 

 けれど、ジュマ殲滅作戦で、イオは爆発に巻き込まれて死んでしまう。そもそも人工体は後一ヶ月も持たないとわかっていたのだった。でも、僅かに残ったイオ(ジロウ)の遺伝子を元にジュマによって再生されたイオは、元のジロウの体に復元されて、生き返る。

 文句のつけようのないハッピーエンド。

 そして、「伝説―未来形―」に続く…。

 

 「樹魔」の時点では、普通の面白いSFだなーという感想なのだけど。続く「伝説―未来形―」ではここからとてつもない広がりを見せる。

 

 時代と人は「宇宙」に熱をあげていた。だが、探査船を打ち上げても原因不明の宇宙船の不備でその夢はことごとく妨げられていた。

 そして、ジロウ(イオ)はその原因が「人は宇宙空間で正気を保てない」ことだと知る。それは人としての種の限界なのだろうか、とジロウは驚愕する。

 正気を保てない、というのは精神が壊れる、ということ。(こういう設定を読むと、青比古の一族の男が「狂う」っていうのも、本当は何らかの理由がありそうな気がする。)

 この世界ではツァラ・ラダという天才科学者が提唱したラダ科学によって、そういった不確かなもの『精神』や、『魂』といったような観念的な事象は長い時間捨て去られ、長い間忘れられていたことだった。そうしてラダ科学が浸透してから3世紀がたっていた。

 

 このラダ、というのは、実は異星人なのである。ラダは人間における精神というものを持っておらず、理解ができない。だから人間の精神を否定した。そして人間が時に奇妙な飛躍をして(進化の過程が一部飛んでしまう)驚くような速さで進化を続けていることに脅威を感じたラダは人類を絶滅させることを決める。(これは「樹魔」で、その進化のスピードに恐怖を感じた人間たちという構図と被ってくる。そして、イオたちは実際にジュマを殲滅してしまったわけで…)

 そしてそんなラダの思惑に気がつき対立した人物がミゼーラだった。ミゼーラは人間の持つ精神の力について答えを得ていた。それが人類を滅ぼす鍵になる

 人間は肉体(三次元体)と精神(異次元体)の二元合一体の存在で、精神こそが進化の指標となるということ。精神は次元を越え無限に進化する可能性をもち、多次元宇宙、多次元時空へと進出するのだという。(もはやなにがなにやらである)

 そして、この進化というキーワードで再登場するのが「ジュマ」なのである。

 どうして、ジロウはジュマによって再生されたのか。それはジロウのなかにディエンヌへの思いがあったからだった。

 ディエンヌはジュマと出会った時には弱っていて、その時にジュマのエネルギーを分けられたという過去があった。ジュマのエネルギーの原点はディエンヌにある。ジロウが再生されたのはその想いにジュマが共鳴したからだ。

 ジロウを再生した時にジュマのエネルギーはなくなったのだが、ディエンヌのなかにはまだジュマのエネルギーが残っている。

 ジュマの進化を促進する力、ディエンヌに残ったジュマのエネルギー、そして進化によって次元を超える性質を持つ精神。つまりディエンヌさえ望めば、ジュマのエネルギーが作用してディエンヌの精神は無限に進化していく。それはディエンヌは神にも等しい存在になるということだった。ディエンヌはその事実を知り、恐怖する。そして進化を望まないといって泣いた。

 

 一方、精神を持たないラダはそれを否定し、ラダ科学で人間の思想を支配した。

 人間は、過去の他の知的生命体とは異なる進化の道を辿ってきており、それはラダにとって脅威だった。

 人間は現在のところ、宇宙を漂う「思念エネルギー」の影響を受け、宇宙では正気を保つことはできない。だが、それも人間は進化によって超えることができる、とラダは予測する。そして、やがて人類は宇宙へ進出する。それまでにラダはおよそ6世紀と計算した。

 それは、「宇宙の進化時計」から外れるとして、ラダは人類の絶滅を画策する。

 宇宙へと向かう人間の熱が頂点に達したときに、人間は宇宙へは行けないという決定的な証拠を突きつけることで、人は絶望し、そのマイナスの意志のエネルギーはやがて人間を死に至らしめる力になる。武力での戦闘は人間の生存本能を刺激し、逆効果と考えたラダは人間が自ら滅ぶ道を考えた。

 だが、結果としてはそれは間違いだった。

 人類が宇宙へ行く、という意志を持った時にそれは人類を飛躍的に進化させ、6世紀という時間を待たず、新人類がすでに誕生していたのである。

 人が望むことで、意志の力でそれはなせる奇跡なのだった。

 

 水樹さんのSF観は全てここに収束している気がする。

 人の「思い」や「願い」、「意志」「精神」の総意が世界を改変するという事象

 

 そのラダの計略を前にそれを食い止めることができなかったジロウは、自死を選択するのだが、それをディエンヌが救った。

 ディエンヌはジロウを救うためについに進化を望んでしまったのだ。ジロウを救うためにはどこまで進化する必要があるのか、どれくらいの時間を要するのかもわからない。にも関わらず、ディエンヌはそれをジロウが死んだ世界には意味が無いと言ってディエンヌはそれを望んだ。

 このディエンヌの進化に実際にどれくらいの時間を要したのかはわからない。何百年、何千年、何億年かもしれない。でも進化したディエンヌは次元や時空を超える存在になったので、時間という単位は意味をなさないのかもしれない。ジロウはその進化の行き着く先が「全宇宙に全存在するようなもの」といっている。

 そして、ディエンヌとジロウはどこの次元とも付かない時間と空間のなかで一時の幸福な生活を送る。そこで「異形の心優しい人たち」と出会い、二人の子どもも生まれた。その幸福は「一瞬」の出来事だった。

 そして、次にジロウが目を覚ました時には、ラダの宣告によって発生した絶望のエネルギーがまさに地球を壊そうとしていた。ラダは人間の感情のエネルギーがどのように作用するかという予測を誤ったのだ。その絶望の力はラダの予想を遥かに超える力を持っていた。

 混乱するジロウの横にはディエンヌが。

 そして、ジロウはディエンヌが自分を助けるためにすでに進化を遂げてしまったことを知る。

 そしてディエンヌは言う。

 

「全存在を過去に…」

「エネルギーが無限にあるところを知っている。あれを使えば」

 

 それは、ディエンヌが次元の向こうへ行ってしまうことを意味していた。

 

 そして、時は巻き戻り、ジロウはラダが宣告する前にラダを殺すことに成功する。

 何もかもが元通りになった。でれどディエンヌだけはもういない。

 それでも、ジロウは決意する。

 次元の狭間に生まれ落ちた子ども、そして宇宙のどこかに存在しているディエンヌにいつか巡りあうと。どれだけの時間がかかろうと、何度生まれ変わろうと、自分の名前もディエンヌの名前も互いのことを忘れ去ってしまっても、いつか再びめぐりあうだろう…と。

 

 伝説とは、次元の彼方に消えたディエンヌのことだ。いつか人類が進化したときに出会う伝説こそディエンヌなのだ。

 

 

 うーん。よくぞ、こんなもんを少女漫画で描いたなーとたまげる…。

 水樹和佳子24年組に続くSF後継と言われているけど、SFという分野におけるその思想は24年組を超えてるんじゃないかと私は思う。SF的思想はもう初期の頃でしっかり出来上がっているというか。

 そしてイティハーサでそれを再構築した、ということなのだろうけど。

 

 うーむ。むむむ。ちゃんとイティハーサ読み返さないとな、と思う。でも、どうしてもキャラで読んでしまうんだよな…。

 

 

 最後に、感想飛ばした「ケシの咲く惑星」について。この漫画で見る、水樹さんの先見性について。

 今の炎上問題とか、現代社会の病理みたいなものが見えるような内容だった。

 どこにも救いがないなんとも物悲しい話なんだけど。

 物語冒頭で火災の事故現場が生中継されて、主人公の父が(不慮の事故で)子どもを死なせてしまい、それをテレビを通して主人公もそして母も見てしまい、それによって母は心を壊し、マスコミには連日責められ、死んだ子どもの母親は自殺未遂を何度もして…、と悲惨な始まり。

 「たいていの人が一度か二度のつまづきで心を閉ざしてしまう」「そういう時代なんだ」と主人公の父は言う。

 でもそういう時代を止めることはもうできない。

 続けて彼はこう言う。

「『一切の無駄を省いて能率アップする』この経済の基本原理が人の心にまで及んでしまった」

「これは正しくない」

「人間には無駄が必要だ」

「人間は様々な無駄を経てゆっくり成長する生き物なんだ」

「管理され、保護されて無駄を知らずに育った人間は脆い」

「一つの回路が切れると動けなくなってしまう 古いコンピュータに似ている」

 

 この漫画が描かれたのは1985年。ちょうど今から30年前になる。

 その時から「そういう時代」だったんだろうか…。というか、もうずっとそういう時代でこれからもそういう時代なのかもしれない…。

 

 そうして語った彼も最後はその「弱さ」に負けて、自ら死ぬことを選択する。

 父もまた「そういう時代の人だったのだ…」と主人公は語る。

 

 物事の真実や、正義というのは見る角度や、立っている立場によって簡単に変わってしまうものだ。

 最近のネット社会を鑑みるに、今読んでとても心にズーンと来る話だと思った。

 

 最後に、水樹さんの絵についても一言。

 樹魔が描かれたのが1979年ということで、なんと36年前。こうやって計算するとびっくりする。なんで驚くかっていうと全然絵が古くないから。

 そんなに絵柄が変わらない人だっていうのもあるかもしれないけど、最初っからすごい綺麗な絵だったんだなーと思わず見入った。イオとか、もう可愛い可愛い。

 あとやっぱり、男の人が麗しい…。カッコイイというよりは美しいという感じ。そんなに洗練されてるという感じの絵柄じゃないんだけど、とにかく綺麗だ。顔がね。本当好き。

 

 というわけで、なんだか収拾がつかない感想でありました…。

 イティハーサ読み終わったら感想のブログ書こうと思います。大半は好きなキャラの萌え語りになるかもしれません(^^;;

 

樹魔・伝説